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今年の年明けに、2歳の息子を保育園におくっていったときの話。
もの凄くぐずった。行きたくないと。久しぶりの登園なのでぐずったのだと思うが、絶対行きたくないと泣き叫んだ。私は頑として、行かないとダメだと言った。
結局は、切なる説得(ガチャガチャ買ってあげるよ、でKO)の甲斐もあり無事登園を果たしたわけだが、ひとり帰り道
で考えた。なんで行かなきゃいけないのか。自分も、ついこの間まで子供だったから行きたくない気持ちはよおーくわかる。それを無理してでも
行けというのは、一体なにが私にそこまでさせるのかと。
○子供にとっての動機付け
あれはダメだこれはダメだと、私が子供に言うのは教育のためである( 少なくともそのつもりである)。では何を教えているのか。保育園に行くことを善とする価値観があってこそ上記教育方針につながると思われるから、つまるところ、そういった「保育園に行くことを善とする」ような価値観を伝えたいがための、教育ではないか。
ではその価値観とはなにか、どういったものを善とする価値観なのか。現代においては、伝統的な価値観の基礎となっていた宗教的道徳心が薄れ、形骸化している。他の言い方をすると、価値観が多様化し
ており、それが許容されている。なぜ人を殺してはいけないのか、などの命題が注目を集めるのは、人々が善悪の判断基準を見失っているからに他ならないのではないか。他人に迷惑をかけてはいけない、という価値観をことさらに強調する人は他者との関係性以外の価値観を人生に見出せずにいるのではないか。
ここで、自分のことに立ち戻って考えてみると、私の価値観の大部分は、主に社会人になってから学んだ、「社会人の
心構え」のようなものに根付いていると気づかされる。この方針を採用していることはおそらく、息子が実際に社会に出て役に立つであろうこと、
( 宗教的なそれと比べて) 比較的合理的に説明が可能であることなどに立脚しているのだと思う。
私は上記のような価値観を、ヴェーバーの言葉を借りて、「資本主義の精神」とよぶ。
例えば以下のようなものがある。
・時間は貨幣である。怠惰な時間を過ごすことは貨幣を失うことと同義である。
・信用は貨幣である。信用に影響を及ぼすことはどんなに些細なことでも注意しなければならない。
・貨幣は繁殖し子を産むものである。だからどんなに少ない貨幣をも蔑ろにしてはならない。
・そして最後に、貨幣とは資本主義の神に対する信仰の証である。貨幣は求めるものではなく、信仰の結果に対して与えられるものである。
保育園に行ったほうがいいのは、継続することに価値があるからだ。また、最後までやりとおすことは、信用を得るうえでは非常に重要だ。
○子供にとっての動機付け
しかしながら、子供が保育園に行かなければならない直接的な理由は、道徳心によるものではない。それは私が連れて行かなければならないか
らであって、私が連れて行かなければならない理由が、道徳心による。この違いは大きい。
例えば、私が神を信じるとしても、私は神ではない。自分を神と錯覚し、または神の子であるかのように嘯き、子供に対して高圧的な態度をとることは間違いである。自分の信じるところを説明し、理解してもらい、協力してもらうことがあるべきかたちであって、子供にとっては特定の信念を押し付けられることは迷惑に他ならないはずである。重ねて言うが、信仰とは、道徳とは、自らが信じるから意味があるのであって、他人に強要すべきものではないし、他人から強要されるべきものでもない。他人に信仰・道徳を押し付け、それを善とするのは単なるエゴである。
では、教育とはいったい何か。それは「対話」である。相手の主張を聞き入れ、自分の望むところを説明し、折り合いをつける作業である。自分がしっかりと道徳心を持った行動を心がけていれば、相手も自然とそれを倣うということもあろう。兎に角、我々は神ではないから。そんなことを考えていたら家に着いた。
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